トーマス・アルバ・エジソン Thomas Alva Edisonとは

トーマス・アルバ・エジソン Thomas Alva Edisonとは

トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)とは

1,000以上の特許と3大発明
 20世紀の文明生活を切り開き、3大発明といわれる蓄音機、白熱電球、それにキネトスコープ(映写機)を世に送り出したトーマス・アルバ・エジソン。

 

 現在でいう通信、光、映像やエネルギーそれに家電製品と広範な研究を積み重ね、1093件もの特許を取得します。

 

 電球を発明した人物として、世界の偉大なる発明家としてあげられていますが、実際には発電から送電に及ぶ電気の事業家に成功したことが、最も大きな功績とされています。

 

 映画の父であり、権利を守るために訴訟を繰り返したことから、別名・訴訟王とも呼ばれ、ゼネラル・エレクトリック (GE) の社長としても活躍したエジソン。

 

 アメリカ合衆国の発明家・起業家のエジソンがいなければ、人類史は100年は遅れていただろうと言われています。80歳過ぎても1日16時間は働いていたというエジソン。今回は彼の生い立ちから功績まで調べてみようと思います。


苦学の人

オハイオ州ミランという街で
 偉大な「発明王」として不動の地位にあるエジソンですが、実は苦学の人としても知られています。

 

 エジソンは1847年2月11日にオハイオ州ミランという街で生誕し、7人兄弟の末っ子でした。幼少の頃からころから常に、Whyが口癖であり、異常なほどの知りたがり屋だったのです。

 

 とても好奇心旺盛ですが、どんな時でも疑問として質問するエジソンに、学校の教師陣からは不快感さえ示す者もいました。

 

 落ちこぼれのレッテルもはられ、エジソンは小学校を3ヶ月で退学してしまうのです。自宅学習をすることに。

 

 そんなエジソン少年に母ナンシーはとても理解を示し、優しく受け止めてくれたのです。元々教師であった母親のナンシーと共に、百科事典を教科書にしながら多くを学んでいきます。母愛の温かい愛情受けつつ、柔軟で創造性にあふれた発想や、失敗を恐れずに挑戦をしていく強い意志がエジソンに身についていくのです。

 

 学校へは行かず、図書館なども活用し独学で学力を身に着けていきます。特に彼が特に興味を示したのが化学の実験についてでした。

 

 12歳にもなると、鉄道の駅で新聞の売り子などをして働き、自宅で様々な実験を行っていました。エジソンは幼少の頃から、難聴の傾向があったそうですが、、屈することがなく成長して生きます。


自動電信返答装置の発明

子供の命の恩人
 15歳の頃になると、エジソンは自らの手で新聞を作り、列車の中で販売をしていました。これが良い意味で評判になったこともありました。
ところが、ある特定の人物を皮肉った内容を記事にした際、本人から暴行を受けたことによりエジソンは新聞作りを断念したそうです。

 

 エジソンの働いていたマウントクレメンツ駅において、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになる出来事が発生。彼は勇敢にも無事に救出しこの出来事が、後の彼の人生を大きく変える出会いにつながります。

 

 駅長は子供の命の恩人であるエジソンに感謝し、当時の最先端であった電信技術を教えてくれるのです。当時はまだ電話もなく、電信技術は情報伝達の重要な手段でした。好奇心の旺盛なエジソンは、とても短い期間でこの技術を習得していきます。

 

 この駅長との出会いを経たことで、エジソンは電信技師としての人生をスタートさせていきます。これが彼の発明家としての一歩を踏み出すことにつながっていくのです。

 

 電信技師として勤務しながら、彼は人生で初めての発明品を作り出します。それは「自動電信返答装置」というものでした。

 

 1864年、17歳のエジソンはカナダの駅で夜間の電信係として、一晩中1時間おきに、勤務に就いていることを示す信号を送信していました。そんな業務に退屈を感じたのか、不純な動機か不明ですが、彼のかわりに電信機が自動で1時間おきに信号を送る装置を作り上げるのです。

 

 自動電信返答装置により彼は電信をせず、実際にエジソンは寝ていたことがありました。さらに本人が作業しない状況は意味がないと、指摘を受けることになります。また通信ミスの発生から、列車の衝突事故を起こしかけ、本社からの出頭命令を無視し、放浪生活を始めることになっていくのです。


電気投票記録機の発明から

初めての特許を取得
 エジソンは1868年、21歳のときに初めて特許を取得します。議会における賛成票と反対票の数値を集計する装置です。

 

 これは、それぞれの押しボタンが押されることで瞬時に集計され、投票にかかる時間を大幅に短縮できる優れ物だったのです。この電気投票記録機で最初の特許を取りますが、与党と野党議員との交渉ができなくなるという理由から、全く採用されなませんでした。

 

 この発明の経緯から、世の中に役に立つ物でなければ価値がないと捉え、エジソンは人々の意見や要望に耳を傾け、発明をするようになっていきます。


ニュージャージー州メンロパークに研究室を設立

ウエスタンユニオン社に特許を4万ドルで
 1869年(22才)、エジソンはニューヨークに移り、ウォール街のゴールド・アンド・ストック相場電信会社に就職。ボストンの証券取引所の現場を視察し、当時の電信表示機の故障頻度から、エジソンは電信表示機の改良を考えます。刻々と変わる株式相場を、取引所から離れた場所でも、誤差なく正確に表示する電信株式相場表示機を発明するのです。

 

 これは当時の電信株式相場表示機の改良版となる「ティッカー」の完成となり、特許も取得します。

 

 ところが発明・特許取得した「ティッカー(Ticker)」の評判がとても良く、ゴールド・アンド・ストックの社長から、特許の買取を持ちかけられるのです。買取提示金額はなんと4万ドル。現在の貨幣価値で言えば約2億円相当です。これにはさすがのエジソンも驚きました。

 

 こうして若くして、多額の利益と発明家としての名声を手にし、一躍大富豪となっていくのです。ニュージャージー州メンロパークには、ティッカーの工場と研究所を設置し、さらなる研究を重ね、電信技術を大きく発展させていきます。

 

 多くの部下と、万人が欲するものを理念に発明は続きます。実用的な白熱電球は「発明家・エジソン」の名をさらに世界に知らしめることなっていきます。

エジソンの名言として

私の発明は、すべての人にとって役に立つ物でありたい。
 ここでエジソンの名言を載せてみます。どれも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」
「失敗したことがない。たんに、うまくいかないだろう1万の方法を見つけただけだ」
「私は決して失望などしない。なぜなら、どんな失敗も新たな一歩となるからだ」