日本経済の基礎を築く
開国から昭和初期までの激動の時代において、日本経済の基礎を築いた人物として有名な渋沢栄一氏。日本資本主義の父とも言われ、生涯に500社以上の会社設立・育成に関与し、600もの社会事業に携わったという圧倒的な事績があります。
また2024年に発行される1万円札の「顔」となることが決まっています。長年親しんだ文化人としての福沢諭吉から、渋沢氏に1万円札の「顔」を譲る政府の意図は、どこにあるのでしょうか?
幕臣、官僚を経て実業界に
幕末の1840年に、今の「埼玉県深谷市」で誕生。武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の富農に三男として生まれました。
実は上に2人の兄がいましたが、両方とも早くに亡くなったため、三男である栄一が長男として育てられています。家は豊かな農商家で、畑作のほかに養蚕(ようさん)や製藍といった商いも営んでいました。
また家業をよく手伝っていたため、仕入れや販売を通し経済的な感覚が磨かれていったと推測されます。さらに父の教育方針により、武家の子と変わらない程の教養を身に着け、7歳になると従兄弟の尾高惇忠氏(新五郎)から「論語」も学び始めます。
攘夷を志す青年期を過ごし、のちに幕臣、官僚を経て実業界に身を投じていくのです。
日本初の銀行を開業
豊かな生家、博識な父や従兄弟、海外視察の経験など、あらゆる幸運に恵まれた渋沢栄一は、その後さまざまな偉業を成し遂げていきます。
1873年6月11日には、日本で最初の国立銀行が設立。この「第一国立銀行」と呼ばれたメガバンクは、現在では「みずほ銀行」と改称されています。
この第一国立銀行こそ渋沢栄一氏が設立した銀行なのです。
さらに第一国立銀行は、長期で借り入れができる低金利の融資を行い、日本経済を支えていきます。また、栄一氏の指示により地方銀行も多数設立されました。
渋沢栄一氏は金融機関の整備を行いつつも、異なる業種の会社の起業も進めていくのです。実際にこれらの会社は、今日の日本経済を支える大企業として君臨しています。
東京証券取引所、東京商法会議所の設立
明治政府では、民部省を経て直属の上司である大蔵大輔・井上馨の下で大蔵少輔・吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行います。
初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱とになります。井上馨氏と共に退官後は実業界に転じることとなり、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、それに東京証券取引所といった多種多様な会社や、経済団体の設立・経営に関わっていきます。
渋沢栄一氏経歴
生誕について1840年3月16日 (天保11年2月13日)
日本の旗 日本 武蔵国榛沢郡血洗島村
(現・埼玉県深谷市血洗島)
死没1931年11月11日(満91歳没)
職業幕臣、官僚、実業家、教育者
配偶者千代(1858年 - 1882年)
兼子 (1882年 - 1934年)
子供渋沢篤二、渋沢武之助、渋沢正雄 、渋沢秀雄、穂積歌子、阪谷琴子、明石愛子(下記参照)