島田紳助氏から肉体関係を持ち掛けられ
2005年から2010年にかけて、モデルやタレントとして大活躍していた元祖・ハーフタレント・マリエ。
4月4日夜、10代のころに引退した島田紳助氏から、肉体関係を持ち掛けられたとインスタライブで暴露されています。
タレントの出川哲朗やお笑いコンビの「やるせなす」らもその場に居たことを打ち明け、紳助氏と肉体関係を結ぶようマリエ本人に勧めたというものです。
インスタライブの映像がユーチューブ上で閲覧でき、リスナーからのコメント欄には「マリエさんの勇気ある行動に拍手。過去の傷が癒えていなかったんですね」「マリエさん、ラジオはやめないで欲しいです」などどいったメッセージが寄せられています。
この騒動に関しては、出川の所属事務所が声明を発表し、「出川本人に確認し、番組の収録後の打ち上げで出演者、事務所関係者、番組スタッフなど大勢がいる場では同席したことが一度ありましたが、プライベートで食事に行ったことは一度もなく、お騒がせしているような事実はないと申しています」と完全に否定をしています。
やるせなすの所属事務所もこのマリエ証言≠否定しています。
マリエ 勇気の告発 - インスタライブ録画(2021/04/04)
マリエ、流ちょうな英語ミックスで歓喜のスピーチ! 国際女性デーで表彰
2000年代前半、モデルやタレントとして大活躍
2000年代前半にモデルやタレントとして活躍していたマリエは、自由奔放で歯に衣着せぬ「セレブタレント」としてバラエティー番組などで大活躍。
父親は自動車用オイル輸入代理店を経営し、世界中に別荘やクルーザーなどを所有。カナダ人の父親と日本人の母親の間に生まれ、セレブタレントの中でもワンランク上のお金持ちの家庭で育ったようです。
マリエさんも、小学五年生から子役モデルとしての活動を開始。その後ファッション雑誌『ViVi』の専属モデルとして人気を集めます。
carboyより引用しています。
自動車用オイルの輸入代理店「Unico」の社長
マリエの父親はフランス系カナダ人であるダニエル・デマレ。1970年の日本万国博覧会で来日され、その後に東京プリンスホテルのコンシェルジュという経歴の持ち主です。
その後、日本に移住しサイドビジネスとしてGPAヘルメットを本格輸入。日本のモータースポーツにはまり、遂にはレーシングドライバーに。
レーシングドライバーとして活動するも、本国カナダの両親に知られないように「ダニエル・ラツール」という別名でレースにエントリーをするのです。
そしてダニエル・デマレは、自動車用オイル、エルフの輸入総代理店「Unico」の代表取締役に就任します。
父親の会社が倒産
そんなマリエの父親のダニエル・デマレの会社のunicoは、2001年には不渡りを起こして休眠状態になり、2015年1月20日には解散に至ります。
マリエら家族が暮らす自宅は、もともとは父親のダニエル・デマレの別会社の名義となっていましたが、マリエがこれを買取り事実上の名義人になります。
この土地・建物の登記総額の6500万円が、マリエ名義の借金として存在。一時は、税金滞納で差し押さえられていたという事実が発覚しています。
ツイッターで炎上!
2011年に発生した東日本大震災。多くの被害が東日本を襲います。
マリエ自身はツイッターで、
「世の中チャリティー産業かよ!」「こっちはいろんな所から、募金です。金くださいって連絡がたえなくって困ってんだよ!」
という発言が問題視され、ツイッターで大炎上するのです。マリエに対する世間の評価は一気に急降下となりました。
急遽、彼女自身はツイッターやブログで謝罪をしますが、重要なオファーは少なくなっていくのです。
ツイッターでの当時の出来事について
マリエはのちのインタビューで、ツイッターで炎上した発言について
「すごく反省しています。私の言い方が悪かったです」と。
「当時、私がセレブタレントと呼ばれていたこともあり、さまざまな所から『セレブなら寄付しろよ!』という心無い言葉がかなりの数寄せられていたんです。
当時はそれをスルーできず、つい言い返すようなツイートをしてしまって……。もう少し言葉を選べば良かったのに」
と答えています。
2017年に「PASCAL MARIE DESMARAIS」を
マリエは2017年に「PASCAL MARIE DESMARAIS(パスカルマリエデマレ)」というブランドを立ち上げています。基本コンセプトは、大手には出来ない事をするというもの。
例のTwitterでは「大炎上」が起き、その後アメリカ名門私立大学『パーソンズ美術大学』に半年間の留学をするのです。専攻はもちろんファッション。
パーソンズ美術大学は、ニューヨークのマンハッタンに位置し、アナスイやジェイコブスなどの超一流ファッションデザイナーを輩出。
バラエティに全力で取り組んでいた
後々の彼女のインタビューから、バラエティにマリエ自身が全力で取り組んでいたということが判明。
「当時も人気モデルが大勢いて、私はモデル一本ではナンバーワンになれないと気づいたんです。じゃあ自分にしか出来ないことって何なのか。
迷ったのですが、それはテレビでも臆せず喋れること、あとお笑いが好きなことなんじゃないかと。
ほかのモデルに出来ないことが自分にもある。そこで“5年間だけNOと言わない”と決め、どんな仕事もとにかく自分の100%を尽くしてやることにしました」
と語っている。