坂田利夫さん老衰で亡くなる。間寛平夫妻にみまもれながら。

坂田利夫さん老衰で亡くなる。間寛平夫妻にみまもれながら。

坂田利夫さん老衰で亡くなる。間寛平夫妻にみまもれながら。

最後は寛平夫妻や親族に見守られながら
 「アホの坂田」という愛称で親しまれたお笑い芸人の坂田利夫(さかた・としお、本名・地神利夫=じがみ・としお)さんが、老衰により82歳で大阪市内で亡くなりました。

 

 吉本興業の発表によると、最後は寛平夫妻や親族に見守られながら息を引き取ったとのことです。

 寛平さんは、自身のXで坂田さんの近況を報告し続けていました。

 坂田さんの近況を伝えた投稿は11月27日は最後となり、寛平さんが坂田さんの頭をなでる写真をアップしていました。今回は坂田さんについて調べてみようと思います。

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漫才コンビ「コメディNo・1」とは?

1967年から2009年まで活躍
 前田五郎さん(享年79)との漫才コンビ「コメディNo・1」で全国区の人気を誇り、「あ〜りが〜とさ〜ん」「あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ」など数多くのギャグでも知られた前田五郎さんと坂田利夫から成るお笑いコンビです。

 

 1967年から2009年まで活躍していました。お互いピンとしての活動が多く、コンビとしてはなんばグランド花月など舞台での活動が中心でした。

 

 「コメワン」という略称で親しまれています。コンビ名は吉本新喜劇の作家檀上茂さんによって命名されました。

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【懐かしの上方演芸】コメディNo.1(前田五郎・坂田利夫)

 

 巧みにボケとツッコミが入れ替わる!お二人共、頭の回転が早くなければ瞬時に反応できない。

 

 基本ネタの筋書きはあるのでしょうけれど合間にアドリブも入っている感じがします!

 

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「アホの坂田」というレコードを発売し、大ヒット

大村崑さんの熱狂的なファン
 坂田さんは、此花商業高(現・大阪偕星学園高)を卒業した後、1961年に吉本新喜劇の研究生となり、64年に吉本興業に入社します。

 

 彼は大村崑さんの熱狂的なファンであり、お笑いの道を志すようになりました。

 

 そして67年に前田五郎さん(2021年死去)と共に漫才コンビ「コメディNo.1」を結成。彼らは「なんば花月」を中心に活動し、その軽快なトークが大きな人気を呼び、70年には「第5回上方漫才大賞」の新人賞を受賞するのです。

 

 さらに、彼は71年に「第1回NHK 上方漫才コンテスト」の優秀話術賞を受賞し、72年には「第1回上方お笑い大賞」の金賞を受賞しました。

 

 また同じ年に、彼は自身の出囃子(でばやし)となる「アホの坂田」というレコードを発売し、大ヒットに。この楽曲は、作曲家キダ・タロー氏によって作られ、浪花のモーツァルトと称されるほどの人気を集めました。後の79年には「第14回上方漫才大賞」の大賞を受賞しました。

 

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芸に生きる人であり、お笑いが大好きな坂田兄やんは、天国でもみんなを笑顔に

私にとっては大師匠という存在です
 間寛平(74)さんは、所属する吉本興業を通じて、老衰のために亡くなった坂田利夫(さかた・としお)さんについてコメントを発表。

 


 寛平さんは、「吉本に入った当時からずっと可愛がってもらいました。一緒に過ごした時期もありましたが、その時は坂田兄やんが支払ってくれたお金でホテルに住んでいました」と懐かしく振り返っています。

 

 そして、「子供が生まれてからは娘も自分の子供のようにとても可愛がってくれました。舞台で子供たちにウケると、坂田兄やんはとても喜んでいました」とも話しました。

 

 寛平さんは、「坂田兄やんは『アホの坂田』と呼ばれていますが、私にとっては大師匠という存在です。今の時代にアホの道を極めることができるような芸人はいないし、二度とあそこまでの芸人は出てこないと思います」と尊敬の目で語りました。

 最後に、寛平さんは「芸に生きる人であり、お笑いが大好きな坂田兄やんは、天国でもみんなを笑顔にしていると思います。心からご冥福をお祈り申し上げます」としのんでいます。

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あっちこっち丁稚とは?

 

 坂田利夫さんと間寛平さんは、芸能界の先輩後輩で、なんと54年もの長い親交があります。

 

 「あっちこっち丁稚」(朝日放送)という番組で共演して以来、二人の関係は深まりました。
坂田利夫さんを「大先生」と
 間寛平さんは、坂田利夫さんを「大先生」と親しみを込めて呼んでいます。

 

 坂田利夫さん、木村進さん、間寛平さんの丁稚トリオは大人気で、放送開始から1ヵ月後には驚異の視聴率26.6%を記録しました。

 この番組は、テレビ草創期に人気を博したMBSの『番頭はんと丁稚どん』(1959〜1961年)を基にして作られたんだとか。

 

 好評を受けて、1975年4月からは放送時間も日曜12時に変更され、全国ネットでの放送が再スタートしました。この番組は、吉本興業がはじめた「ユニット制作」の初期の成功作品として知られています。

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坂田利夫さんPR

 

 生涯独身を貫き、吉本興業内で坂田さんを「結婚させるプロジェクト」が発足したことがありましたが実ることはありませんでした。

 

 坂田さんは「結婚できないのではなく、結婚しないのです。子どもができたら『アホの子』と言われるのではないかと心配です」と述べていたそうです。

 

 長年にわたって吉本新喜劇で活躍し、その存在は稀有で、その場にいるだけで笑いを生む稀有(けう)な存在と評された坂田さん。

 

 坂田さんのご冥福を心からお祈りいたします。

名前:坂田利夫
本名:地神利夫(じがみ としお)
生年月日:1941年10月7日
出身地:大阪府大阪市港区
血液型:B型