ヘレン・アダムス・ケラー
ヘレン・ケラーは、1880年6月27日にアメリカ合衆国南部のアラバマ州にある小さな町、タスカンビアにあるアイビー・グリーンと呼ばれる家で生まれました。
お父さんのアーサーケラーはスイスの血を引いており、南北戦争の頃は南軍の大尉でした。また、裕福な地主でもあり、『ノース・アラバミアン』という新聞のオーナー兼編集長でもありました。お母さんのケイト・アダムスさんは、お父さんよりも年上で、20歳も年の離れた若き妻でした。
ヘレンケラーは名家に生まれ育ち、一人目の子供として産まれ、美しい田園の住宅に囲まれたこの場所で、裕福な生活を送りながら元気いっぱいに成長しました。
さらに生後6カ月くらいになると、片言ですが「こんにちは」と言うようになりました。1歳の誕生日には、ヨチヨチ歩きを始めるほど元気な赤ちゃんでした。
今回は、アメリカ合衆国の教育家であり、自身が視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながら、世界中を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽力したヘレン・ケラーについて調べてみようと思います。
猩紅熱に伴う髄膜炎に
1882年、ヘレンは1歳9か月の時に、高熱(猩紅熱と考えられています)に伴う髄膜炎に。
懸命な治療からなんとか一命は取り留めたものの、聴力と視力を失い、さらに話すことさえできなくなってしまったのです。これらの状況では、両親からのしつけを受けることがとても難しく、結果として非常にわがままに育ってしまいます。
通常、赤ちゃんは周りの大人の会話を聞き、言葉を覚えていきます。ヘレンは1歳半で聴力を失ってしまい、話すこともできずに、「見えない」「聞こえない」「話せない」という三重苦に陥ってしまうのです。
アンサリバン女史の指導のもと
目も見えず、音も聞こえず、しゃべることもできないという三重苦を背負ってしまったヘレン・ケラー。聴覚障害児となったヘレンの人生は、想像を絶する程の苦労、努力、根気の積み重ねだったのです。
同世代の子供たちと同じように教育を受けることができないヘレン。そんな娘をとても心配し、1887年(7歳)にヘレンの両親は、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者)を訪れます。
ベルの紹介から、マサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を送り、家庭教師の派遣を依頼します。
家庭教師として、初めて派遣されてきたのがアン・サリヴァンでした。彼女は後に、50年に渡りヘレンの良き教師でもあり友となりえる人物だったのです。
実はアン・サリヴァン自身も、弱視の障害を持っていたことがあり、これらの経験を生かしてヘレンに「指文字」や「言葉」など、コミュニケーションに必要な術を教えていきます。
家庭教師としてのアンサリバン女史の指導により、ヘレンは人間として人間らしく生活できるようになっていきます。さらに、発話法の指導を受けることで、あきらめかけていた「話すこと」ができるようになったのです。しゃべれるようになった姿は、多くの人々に勇気を与えると共に称賛されました。
ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学
家庭教師としてのアンサリバン女史との出会いから、その後のヘレン・アダムス・ケラーについて概要をまとめてみます。
7歳のヘレンはパーキンズ盲学校に入学。
14歳になり、ニューヨークのろう学校に入学。、ここでは特に、発声法の取得に励みます。
16歳のときにケンブリッジ女学院に入学。翌年サリヴァンが校長先生との教育方針をめぐって衝突し、ヘレンは退学します。この時、ヘレンはもう一人の家庭教師キースの手を借り勉強を続けていきます。
20歳になったヘレンは、ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学。在学中に『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載されるのです。
1904年に卒業し、文学士の称号を取得。
29歳 アメリカ社会党に入党。婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの政治的・人道的な運動に参加します。著作家としても活動中。
よき友人としてヘレンを支えていくことに
日本では「サリバン先生」の名で知られているアンサリバン女史。ヘレンケラーの生涯を綴る戯曲は『奇跡の人』、原題は「The Miracle Worker」となっています。
ここでいう奇跡の人とは、多くの困難を乗り越えてきたヘレンケラーではなく、アン・サリヴァンを示しているのです。
彼女は、ヘレンの旅行に際して、また様々な講演旅行にはほとんど同伴し、支援をしていきます。
しかしながら1936年10月20日、 冠動脈血栓症によりニューヨークのフォレストヒルズで亡くなります。享年70。アンサリバン女史の遺体はのちに火葬され、ワシントンD.C.の国立大聖堂の記念碑に埋葬されました。
実は、ヘレンはサリヴァンが入院中に、岩橋武夫(点字刊行のライトハウスを設立)の来日要請(病床にあるということから)をためらっていました。そんなヘレンに、サリヴァンは「日本に行っておあげなさい」と遺言を残していたのです。
ブラジル連邦共和国・リオデジャネイロ州・ニテロイ市に、アン・サリヴァンと名づけられた聾学校があります。学校の命名は彼女の功績をたたえたものとなっています。
ヘレン・ケラーの名言・格言集
ヘレン・ケラーの福祉における、非常に多くの人間を幸せにしてきた功績は、言葉では言い表せない程の偉業でしょう。そんな彼女の名言・格言を調べてみました。
顔をいつも太陽のほうにむけていて。影なんて見ていることはないわ。
世の中はつらいことでいっぱいですが、それに打ち勝つことも満ち溢れています。
うつむいてはいけない。いつも頭を高くあげていなさい。世の中を真っ正面から見つめなさい。
はじめはとても難しいことも、続けていけば簡単になります。
自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです。
人生はどちらかです。勇気をもって挑むか、棒にふるか。
人間が生きていく希望をいつでも
ヘレン・ケラーの名言・格言はどうでしょうか?大変な困難にぶつかる時は、誰にでもあることです。そんな厳しい状況でも、発想の転換としてこの名言を思い出してください。
たとえとるべき選択肢が少なくても、打開策はきっと見つかると信じています。そんな勇気を与えてくれる言葉だと思います。
氏名ヘレン・ケラー
英語名Helen Keller
生年月日1880年6月27日
没年月日1968年6月1日
享年87(歳)
国籍アメリカ
出生地アラバマ州タスカンビア
職業教育家、社会福祉活動家、著作家
障害教育や福祉の発展に尽力
ヘレン・アダムス・ケラーとは、「光の天使」として称されるアメリカ人女性で、障害教育や福祉の発展に尽力した方です。彼女は映画や演劇にも出演しています。
当時、障害者の方が映画や演劇を通じて公の場に出ることは珍しく、「ヘレン・ケラーショー」という形で彼女は教育について語りました。そして1921年にアメリカ盲人援護協会が設立されると、ヴォードヴィルショーで人気を博していたヘレン・ケラーには広告塔としてのオファーが舞い込みました。
「ヘレン・ケラーのために財布のひもを緩めましょう」というキャッチフレーズによる募金集会が開催され、多くの著名人や彼女の知人たちが集まりました。中には自動車王のヘンリー・フォードや石油王のジョン・ロックフェラーも募金に協力しました。
ヘレン・ケラーは広告塔として3年間に250回以上の集会を開き、100万ドル以上の募金を集めることに成功しました。彼女の活動は身体障害者福祉法制定のきっかけとなりました。この法律の成立に関わるため、岩橋武夫氏は訪米の際に何度もヘレン・ケラーに訪日を願う手紙を送り、それが実現したのです。
来日の際には観桜会にも出席し、昭和天皇にも拝謁しています。